しーまやさんインタビュー(後編)

トランスジェンダーとして生きる「しーまやさん」への取材、後半です。子ども時代のいじめの経験から生まれた男性に対する嫌悪感、そこから変化していった性自認と身体的性に対する考え方。自身は3度の結婚と離婚を経験し、自衛隊への入隊経験もあるという、非常に稀なご経験をお持ちのしーまやさん。後半パートでは、昨今のトランスジェンダーを取り巻く諸問題や、当事者と非当事者が社会の中でどのように共存していくのかなどについて、しーまやさんのお考えをお聞きしました。

-しーまやさん自身は性別適合手術やホルモン注射をしないという選択をされました。ご自身から見て(手術を含めて)手術や注射をする人としない人の「差」はどこにあると思いますか?

手術や注射をしない人の理由という意味では、大きく3つの場合があると思います。

一つは、私のように病気など身体的理由で性別適合手術やホルモン注射をしない場合。次に、金銭的理由で受けられない場合。そして、既婚者であったり、お子さんがいたりして、家族の同意が得られない場合です。

受ける人、受けられない人、それぞれに抱えている問題があるということだと思います。

函館に知り合いがいて、その人は結婚して子供がいますが、SRS(性別適合手術)まで全部受けています。今は、北海道でスナックをやっているそうです。奥様は女友達が増えて楽しいと言っていたらしく、金銭的にも問題なく、家族の理解も得られる場合は、そのような生活も送れるのだと思います。

-SRSやホルモン注射をしたくてもできない人がいる一方で、理解増進法以降、男性が女性風呂に入る問題などが話題になっています。トランスジェンダー=性同一性障害*ではないという認識も薄いように感じます。

私が思うに、「心が女性なんだから女風呂に入れさせろ」と言って女性風呂に入ってくる人は、トランスジェンダーのフリをしているのだと思います。そういう人は、私から見ると性自認が女性とは思えません。なぜなら、そう言う事をしたら女性がどう感じるか、女性の感じる「恐怖心」を理解できていないと思うからです。そしてそう言う人は、手術やホルモン注射をしようとは思っていないかも知れません。

自分がどう生きていきたいのか、自分をしっかり持っている人が診察や手術を受けて、自分の心と身体を合わせたいと思っているのではないかと思います。

そしてそういう人は、女性がどういうことに恐怖心を抱くか、自分がどんな行動をしたら恐怖心を与えてしまうかという事を、考えて行動すると思います。

*文脈上、読者に違いが分かるように「性同一性障害」と表記しています。以降「性別違和」

-アイデンティティを確立している人が性別適合手術を受けると。そうなると、究極的には自己満足の世界だとも感じますが、いかがでしょうか?結果として、手術で解決しないこともあると思います。自分で納得して生き方を貫くことと、病気を治すこととは違うのではないでしょうか。

その通りだと思います。トランスジェンダーの手術などは究極的には自己満足なんだと思います。

まず性自認が何かという点ですが、それは自分の心の問題です。自分自身を女性と認識しているのか、男性と認識しているのか、そしてどう生きたいか?そこと身体の作りがズレている人が、いわゆる性別違和なんじゃないかなと思います。

そして、そういった人たちの中には、誰にも見せるわけじゃないけど手術したい、自分の心に身体を合わせていきたい、という人がいるわけです。でも、服を着ていて普段は見えないところを手術するわけですから、仰る通り、究極的には自己満足だという事も出来ます。

手術や裁判所でのあらゆる手続きなどを経て、自分は男になった、女になった、本来の自分になれたと納得したいのです。

かく言う私自身も、近い将来、脂肪注入で豊胸手術をしたいと思っています。豊胸手術と言っても、見せびらかすことが目的ではありません。あくまでも自己満足の範囲だと言えるでしょう。

-しーまやさんは、社会との調和を意識して日常生活を送っていらっしゃる印象です。私もゲイとして生活している以上、非当事者には理解の及ばない領域もあると思って、ある意味でわきまえて生きています。

メディアなどでは、声を上げている当事者が大きくクローズアップされています。でも実際には、ごく一部の人が全ての権利を認めろ、受け入れろと言っているように思えます。当事者の大多数は、あえて波風を立てず、穏やかに暮らしたいはずです。

-現在、性別変更審判に関して、要件緩和を求める動きがあります。こちらについてはどのように考えていらっしゃいますか?

私自身は豊胸はしたいけど、双極性障害を患っているという理由でSRSやホルモン注射はできません。また先にお伝えした通り、金銭的理由で受けられない人もいます。

性別変更要件のうち、生殖腺の切除、性器の外見の要件は不要ではないかと考えています。あまりにも身体的・金銭的負荷が大きすぎますから。ですが、だからと言って、ただ要件をなくすだけでは緩和されるだけになってしまって、性別変更を悪用する人も出てくるなどの問題があります。ですから、私は別の要件を作るべきだと思います。

一つは、性別を変更するなら同時に名前も変更するようにすべきということです。現状は、性別変更審判と名前の変更手続きは別々になっていますので。これだけでもかなり申請のハードルは上がるでしょう。

それに加えて、最低何年など医師の診断を継続して受けている証明を提出させてはどうかと思います。残念なことに、性別違和の診断を簡単に出す医師がいるのも事実です。1日で出すクリニックもあると聞きます。

性別変更は、その人にとって勇気のいる決断です。悩んできた時間でいえば、昨日今日のことではありません。時間がかかったからこそ、積み上げてきた家族や友人の理解もあると思います。

極端な話、天涯孤独な人や、友人のいない人は名前や性別変更をしたいと思わないのではないでしょうか。それは、性別違和で苦しんできた自分を誰かに認めてもらいたい、という気持ちも根幹にあると思うからです。

-最後の質問です。自分らしい生き方をすることと、他人との共生というのはどうやってバランスを取るべき(あるいはその必要がない)と考えていますか?

社会で生きる上で、バランスを取ることは大切だと思います。

特に日本社会では、みんなと同じようにとか、個よりみんなで協調していくことが求められますよね。

ただし、バランスに固執する必要はないとも思います。固執する事は、没個性になるからです。

大切なのは、社会常識の範囲内でバランスを取ることだと思います。つまり「法を犯さない」ということがまず第一です。それ以上のことに関しては、必要以上にバランスを取ることはないのではないでしょうか。

例えば、昨今事件が取り沙汰される「女性風呂に心は女性と主張する人が入ること」は、明らかにバランスが取れていない、やってはいけないことをやっているわけです。そして、やっている人はトランスジェンダーではないと私は捉えています。

私の中でのトランスジェンダーは、やむを得ない場合を除いてだれでもトイレを使うようにしたり、公衆浴場・大浴場には行かずに、部屋のお風呂に入ったりします。それが社会とのバランスを取るという事なのではないのかなと考えます。

私は「周りが自分に合わせろ」とは思いません。もちろん、周りが自然に合わせてくれるのが理想的ですが、だからといってそれをこちらからは言いません。

求めること全てが悪いことだとは思いませんが、内容によるのです。正確に言うなら「求めない」ではなく「『私はこうです』とは言うが、求めない」というのが正しいでしょう。認識してねとは言っても、理解してくれとは言わないということです。

理解して合わせてくれるかは相手の課題なのです。そこに踏み込むのはおこがましいと思います。相手の課題なのか、自分の課題なのかをしっかり切り分けて考える事が大切だと思います。そして、相手の課題には踏み込まない、というのが私なりのバランスの取り方です。

-ご自身のお話だけでなく、非常に多岐にわたるテーマで深いお話ができたと思います。ありがとうございました。

私自身、取材されるのが初めての経験で、新鮮で楽しくお話ができました。私の話が他の誰かの参考になれば幸いです。

しーまやさんへの取材を通して改めて感じたことがあります。それは、カテゴライズという色眼鏡を介して深まることは無いということです。我々も便宜上はゲイやトランスジェンダーと分けて考えがちですが、こうやって対面で話してみると、結局は一人の人間として相対しているというところに行き着きました。
一方で、トランスジェンダーであり性別違和の当事者ならではの視点については、学ぶところが多かったです。例えば、私であれば「ゲイ」としての日常や物事の見方が基準になってしまっているので、どうしても身体を変えたいとか、性自認が違う人のことについては考えが及ばないところもあるわけです。そこについてはやはり、様々な当事者の「生の声」に耳を傾けることが大切なんだと改めて感じた取材でした。

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